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晴れている日もいない日も

書いてデトックス。

OLの習い事の向う岸

就職してから少し経ってフラメンコを習い始めた。

最初は家の近所のカルチャーセンターで週に1度、1時間強のクラスに通っていた。カルチャーセンターの生徒は年齢の幅が広く、当時20代だった私はぶっちぎりで最年少だった。続けるうちにもっともっとという気持ちになったものの、そのカルチャーセンターではそれ以上のクラスは開講されていなかったので、当時の先生が所属しているスタジオに通い始めた。そこからももう随分経つ。

 

フラメンコを最初に見たのは大学時代だ。通っている大学にはダンス部があって、フラメンコを専門にやっている人たちがいた。

友人がそこに所属していて、学園祭のステージで見て一気に興味をもった。聞き慣れなくて全然取れない、でも盛り上がるリズムと、それまでずっと聴いていた五線譜できっちり書くことが出来るメロディとは異なるなんともいえない旋律、そして華やかな衣装。学生時代の私には靴も衣装も、たまに来てもらっているプロの先生への授業料も払えそうになくて始められなかったけれど、就職してしばらくしてふと思い出したのだ。

 

通っているスタジオには色んな生徒が通っている。年齢層もバラバラだし、少ないけど男性の生徒もいる。

健康のために定期的に体を動かしたい人、踊ってストレスを発散したい人、もちろんフラメンコの歌、音楽そのものが好きで通ってる人も多いし、プロを目指している人も、実際にプロ活動と呼べるようなことをやっている人もいる。

意気込んでスタジオに通い始めたものの私がお稽古ごとに割ける時間は少なくて、プロ活動に向かっていく人や、ぐんぐん上手くなる若い人を眺めながら、ちょっとマンネリ化したり、発表会前の人間関係で嫌気がさしたり、そんなこんなでここまできた。

そして今年初めて、それも唐突に、プロ、セミプロと呼べるような人、ソロでコンクールに出るような人たちが集まっているクラスに突入した。私はそれまで決して熱心な生徒ではなかったので、先生方にもどういう風の吹き回しなのか何度か聞かれた。
はっきりしていることは、仕事が急に今までのような忙しさではなくなり、今なら「仕事が忙しいから」を言い訳にせずに取り組めるはずだと思った、ということ。でも、それ以外はなんだか上手く説明出来ない。今やらなければ永遠にそこに挑戦することはない気がすると思ったのも確かだけど、それだけじゃない。そして困ったことに溢れるフラメンコ愛とかでもないのだ多分。

結果、今地獄を見てる。
こんな基本的な技術も身についていないのにどうするつもりなのか?と問われ続けてる。がんばりますとしか言えない。舐めてました出直しますといって撤退した方がいいとわかってるのに言えない。
そこそこ長く「OLさんの習い事」の岸にいて、広く深い川の向こう側に広がるプロを目指す人たち、プロを目指すわけではないけれどフラメンコを追い求め続ける人たちの岸を見てた。足元を見ればそこに横たわる川の広さも深さも見えたはずなのに、向こう岸がなんだかとても素敵に見えて、何も考えずに川にはいってしまった。今はそういう状態だ。

渡りきれずに、けれど戻ってくることも出来ずに、流されて消えてなくなってしまうのではないかという気持ちでいっぱいになっている。なんで軽率に渡ろうとしたのか?と自問してる。自分でも納得がいく答えが出来ない。

これを書いてて、まだなにもオチがない。
結果は見えてる気もするけど、まだ出ていない。1ヶ月後、2ヶ月後、私はどこにいるかなと思ってこれを書いてる。



地雷撤去としての整形

Eテレ ねほりんぱほりんの「整形する女」の回を見た。

この番組、今までも重いテーマや果てしない闇に真っ向から斬り込んでいて、めちゃくちゃ面白いけどあれ?笑えない...みたいなことが多い。今回もそうだった。

www4.nhk.or.jp

一重を気にする10代の娘に整形を持ちかけてしまう親は正直どうなの?それによってますます「やっぱり見た目は大事なんだ(今の私はダメなんだ)」という考えが強固になり、追いつめてることにならないのかなあという疑問は感じた。
でも、今回の放送を見て、成人で自分の判断で整形する人を「強欲」だの「詐欺」だの言う気にはなれないなとは思った。

 

自分の顔に強い劣等感があるのに、見た目の良し悪しで損得が決まってしまう世界にうっかり足を踏み入れてしまったら本当につらい。それだけじゃなく、優しくて思いやりのある人に「人間は顔じゃない」だの「性格がいいから大丈夫」だの言われたら、相手に一切の悪意がなくても爆死すると思う。
この地雷って、見た目を気安く罵る人も踏むけど、見た目なんて大事じゃないよ!って言い出す一見聖人みたいな人も踏むから。悪意があろうがなかろうが踏んだら爆発するのが地雷だ。


そう考えると、自腹で自分の地雷を撤去するって誰に責められる話でもないよね。
この地雷を決して踏まない思いやりに溢れた人とだけつき合いたいだの、私のことが好きならこの地雷を完全に撤去出来るはずみたいなことを言い出す方がむしろ質が悪くないですかねと。

お金かけてある程度のリスクを負えば撤去出来ると気がついて、決断、実行するのは前向きな話だなとさえ思う。一度やってしまうと際限なくやってしまいがちとか、子どもが出来たらどうなるの?とかは別の問題としてあるけれど。


ところで来週、本当に最終回なのかなあねほりんぱほりん。一旦充電に入るのではなく、終っちゃうとしたら本当に残念。

こちら↓も読んだばっかりだったしね。

news.yahoo.co.jp

引き継がれたのはロマンなのか

日生劇場ビッグ・フィッシュ」を観た。

夢の世界を生きる父親と、父の本当の姿を見極めようとする息子を通して描かれる継承の物語。世代交代をしていく家族の物語ではあるけど、主軸はひたすら父と息子。

空想の話で自分を煙に巻き続けた父エドワードに対する苛立ちや拒絶感が、息子のウィルからは伝わってくる。しかし正直ウィルの描写が少なすぎてそれ以外のウィル、現実を生きるウィルの姿が抜け落ちている印象だった。そういった点では、エドワードの空想の中で活躍する妻サンドラは、現実世界の描写もウィルより描かれていて、なんというか「現実」を表す人だった。

ウィルは、テレビの仕事をする女性ジョセフィーンと結婚し、アラバマからニューヨークへと出て行くのに、南部の田舎町を飛び出して大都会を目指す野心のようなものも描かれていないし、どんな仕事で一旗揚げるつもりなの?っていう部分も謎だったなあ。おかげで歌ばっかり目立ってしまって浦井君もったいなくないかな、という感想。

一幕も二幕もエドワードの夢物語が次から次へと繰り広げられて、しかし現実では父と息子の確執があると伝えられていて、これはどうやって収束させるんだろうと思ってたら、ジョセフィーンがいきなり、お父さんの話はあなた(ウィル)に伝えたかったメッセージだからそれぞれの話のメッセージを確認しましょうみたいなことを言う。この解説をさせるためにジョセフィーンは出てきたの?というくらい他に出番がないので、この場面が妙にひっかかってしまったのでした。

オチとして、父が決して語らなかった物語こそが一番夢のような素晴らしい話であって、それによって息子の心は氷解し、父が望む夢のような人生の終焉に力を貸すというエンディングでありました。

 

照明を含め、舞台の見せ方は本当に美しかった。
映像をスクリーンに映すタイプの演出でここまで違和感なく、空間を効果的に見せていた舞台は久々でした。水仙のイエロー、そこに登場する人たちのブルーの衣装も素敵だったし、各シーンのダンスも見応えがあった。美しい絵本を見せてもらったような気分、という感想がしっくりくる。
だからこそ、ウィルの薄さだよねえ。残念なのは。エドワードのエピソードを少し削ってでもウィルの生きる現実、親子の関係をもう少し見せて欲しかったな。

ウィルがかなり無色透明に描かれているせいで、あまりに大きくて派手な男のロマンみたいなものをポンと投げて去っていくなよエドワード!それちょっとウィルには重いよ!って気分にもなった。じゃあ何がどういうバランスだったらよかったのかは難しいところ。

個人的にはこういう話ってそれこそ男性が観た方がぐっとくるのではと思ってしまうのだけど、どうなのかな。とはいえ、客席は九割八分まで女性、しかも年齢層高め。ミュージカルだから、日生だからそういうものといえばそうだけど、そこもなんだか勿体なく思ったところでありました。